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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第45回 最澄、空海いよいよ渡航!

最澄は天皇のために祈る最高位の僧侶「内供奉十禅師」の一人として、

遣唐使の船に乗り込みます。

いわば仏教使節団の団長というところ。

この時点で最澄は最先端の仏教の担い手であり、

奈良の南都六宗の高僧たちをも指導する立場にありました。

東大寺、興福寺などの僧侶たちは、内心は非常に不満を抱いていましたが、

桓武天皇の信任の厚い最澄に表向きは従っていたのです。



最澄には通訳兼任の弟子義真がつきました。

最澄の渡航費用や勉学の費用などはすべて国費で賄われました。

最澄は還学生つまり短期留学生として唐に赴くため、

現地に長期とどまって学ぶ必要はありませんでした。

最澄の目的は、天台宗の大本山である明州の天台山に登って教えを請い、

経典を持ち帰ることでした。


一方の空海は、遣唐使の船が整備などで出帆が遅れたために

滑り込みで辛うじて留学がかないました。

国家の正式の僧侶でない空海がなぜ留学生に選ばれたのかは謎とされています。



空海の留学期間は20年と定められていました。

留学生の渡航費用は国費ですが、現地での滞在費用や勉学の費用は私費が原則でした。

驚くべきことに空海は船に乗り込む時には莫大な量の砂金を手にしていたようです。

なぜそんなことが可能だったかも謎とされます。

20歳代に各地を巡るうちに、空海は途方もない財力、実力を身に着けていたようです。



遣唐使船は「四つの船」といわれ、4艘の船団からなっていました。

当時の船は、寄せ木で作った箱のようなもので波に弱く、

また帆も後進的なものだったので、渡航は極めて危険でした。

4艘が日本にまともに帰りついたことはほとんどありませんでした。

遭難の確率は30%にも上っていたでしょうか。

事実この延暦23(804)年の遣唐使も第三船が帰途に肥前松浦で遭難しています。



7月、いよいよ遣唐使船が出帆します。

乗船場所は九州、太宰府近くの浜。最澄は「四つの船」のうち第二船に乗ります。

空海は遣唐使の乗る第一船。空海は乗船の際に浜辺で最澄に挨拶をしたことでしょう。

二人の身分は大きくかけ離れていましたから、

最澄は若い留学僧のことなど、気にもかけなかったかもしれません。

おそらく、このとき二人は初めて出会ったのです。


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空海が修行したという奈良市空海寺


プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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