HOME > 広尾 晃の気まぐれ寺ばなし > 第40回 空海との出会いを演出した和気氏
広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第40回 空海との出会いを演出した和気氏
最澄を桓武天皇に引き合わせたのは和気広世(生没年不詳)だとされます。
広世は有名な和気清麻呂(733‐799)の長男です。
和気清麻呂は、奈良後期の中堅官僚。
姉の法均(和気広虫)は称徳天皇(孝謙天皇)の信頼厚い尼僧でした。
この時代、僧道鏡が称徳天皇の信頼を得て権力を握り、
ついには宇佐八幡(大分県)の託宣と称して皇位の簒奪をうかがいます。
称徳天皇は事の真偽を確かめるために、
法均の代理として弟の和気清麻呂を宇佐八幡に遣わします。
清麻呂は道鏡のたくらみを知っていたので
「天皇の世継ぎは必ず皇族から選ぶべし。そうでないものは早く追放すべきである」
との託宣を持ちかえります。
道鏡のみならず称徳天皇の怒りも買った清麻呂とその一族は官位を剥奪され、
名前も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて九州に流されます。
苦節8年、称徳天皇の崩御によって和気清麻呂は中央政界に復帰を許され、
桓武天皇の重要官僚の一人となりました。
和気氏は奈良仏教権力濫用の被害を最も蒙った一族といってよいでしょう。
清麻呂の子である広世は、父の失脚によって大変な前半生を送ったはずです。
彼が、比叡山の山中にいた最澄を見出して桓武天皇に引き合わせたのは、
何としても新しい仏教を興さねば、という強い使命感があったからではないでしょうか。
また広世やその兄弟姉妹は、空海によって灌頂を受けて仏教に深く帰依しました。
さらに空海のために自らの氏寺だった高雄山寺を、拠点として提供しました。
平安初期に、最澄、空海の新しい仏教が広がった背景には、
和気氏など奈良仏教に批判的な勢力の支援があったのです。
最澄を支援した和気氏の氏寺「高雄山寺」の後身、神護寺(京都市右京区)
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
メディアイランド刊『ふつうのお寺の歩き方』
全国書店やネット書店で絶賛発売中 ↓↓↓
http://www.mediaisland.co.jp/item2/item240.html
http://www.amazon.co.jp/ふつうのお寺の歩き方-広尾-晃/dp/4904678745