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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第39回 平安京に登場したニューヒーロー

平安遷都はスムーズに進んだわけではありませんでした。

当初は長岡京への遷都が進められましたが、

遷都が完了した直後の延暦4(785)年、

事業を指揮、監督した藤原種継が何者かに暗殺されます。



桓武天皇はこれに乗じて藤原種継と不仲だった弟早良皇子を廃しました。

早良皇子は流罪になりましたが、抗議のために断食して亡くなります。

早良親王はかつて東大寺に住した僧侶でしたた。

そのために遷都に批判的だった奈良仏教の意見を代表していたといわれます。



災厄が相次いだのは、桓武天皇に徳がないうえに、

長岡京が良くない土地だからだと言う風評も立ち、

桓武天皇はわずか10年で長岡京を廃して今の京都に遷都します。

これが平安京です。延暦13(794)年のことでした。



桓武帝は「今度こそ失敗すまい」と強い決意を抱いておられたことでしょう。

都の造営は、中国の最先端の「科学」だった「風水」も用いて、慎重に行われました。

都の鬼門に当たる北東には、鎮護のために寺院を建てて

徳の高い僧に住持させたい、と願っていたようです。

そこに、都の北東比叡山の山中で修業を重ねる若い僧侶の噂が入ってきます。

これが最澄。



最澄は比叡山の東のふもと、近江国志賀の坂本に生まれました。

家は渡来人の家系でこの地を支配していた三津氏。

若いころから優秀で、近江国の国分寺に入り行表という高僧に師事して得度しています。

国家が定めた正式の僧である「年分度者」でした。

しかし最澄はこのエリート僧侶の資格を棄てて故郷の山にこもって、修行を重ねていました。



桓武天皇が最澄の噂を聞いて好感を抱かれたのは想像に難くありません。

官位は低いとはいえ名のある家柄に生まれ(しかも自分と同じ渡来系)、

難関を突破してエリート僧侶となった。

そんな才能があるのに既存の仏教を否定して独自の修行を続けている。

奈良仏教を批判し、その影響を逃れるために遷都を志向した桓武にしてみれば、

新都の仏教をリードするには格好の人材と思われたのでしょう。



和気広世、藤原葛野麻呂などの紹介で最澄に会った桓武天皇は、

たちまち気に入り、延暦16(797)年、最澄を内供奉十禅師の一人にします。

この内供奉十禅師は、仏教の力で天皇を守る重要な役職です。

このとき最澄は32歳。最澄は若年で国家仏教の中枢を担う役割を負わされたのです。

大会社の社長がベンチャー企業の若手経営者を引き抜いて、

いきなり役員にしたような感覚でしょうか。



こうして、最澄は新らしい都のヒーローになりました。


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最澄が生まれた地に建つ生源寺

プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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