HOME > 広尾 晃の気まぐれ寺ばなし > 第38回 渡来系の血を引いている日本の皇室
広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第38回 渡来系の血を引いている日本の皇室
平成13(2001)年、今上天皇は天皇誕生日の記者会見で桓武天皇の母、高野新笠の名前を出され、
皇族が百済渡来人の血を引いていると紹介されました。
サッカーワールドカップの日韓戦開催を祝う意味がこめられていましたが、
日韓両国で大きな反響がありました。
一部の日本人は、万世一系の皇統に朝鮮半島の血が流れているとのご発言に強く反発しました。
また、韓国では大変な歓迎ムードが流れました。
今上は、日韓の不幸な歴史を認識されたうえで、この勇気ある発言をされたのだと思います。
近代的な意味での「国家」が成立していない古代の日本人にとって、
大陸からの渡来人は「外国人」ではなかったと思います。
文化、文明の進んだ土地から来た人々であり、言葉も異なったかもしれませんが、
大都会から田舎に人が引っ越してきたような感覚ではなかったでしょうか。
古代日本の文明は、大陸からやってきた人々がリードしていました。
政治も一時は渡来系の蘇我氏が実権を握りました。
またいち早く仏教を取り入れたのも秦氏をはじめとする渡来人でした。
百済から逃れてきた王族が貴族にもなりました。
その名もずばり百済王(くだらのこにきし)氏といい、一時は大臣クラスにも出世しました。
平安時代の仏教をリードした最澄も渡来系の三津氏の生まれでした。
桓武天皇が最終的に都を遷した山城の地は、秦氏など渡来系の人々が居住していた土地でした。
都が遷る前は秦氏の氏寺だった広隆寺が壮大な伽藍を並べていただけで、あとは茫々たる荒れ地でした。
桓武天皇の平安遷都は、大陸系の匂いが紛々とする中で行われたのです。
日本人が大陸との国境を意識し始めるのは、遣唐使が途絶えた平安中期以降だと思います。
なおも九州など大陸に近い地域では、中世末期まで
日本人と朝鮮半島の人々は徒党を組んで海賊になったり、深く交易したりしていました。
その当時までは言葉も通じたようです。
今上天皇のご発言は、こうした歴史的経緯の中で、
日韓両国が永年におよぶ深い絆で結びついていることを強調する意味がこめられていたのではないでしょうか。
渡来系秦氏が建立した広隆寺
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
メディアイランド刊『ふつうのお寺の歩き方』
全国書店やネット書店で絶賛発売中 ↓↓↓
http://www.mediaisland.co.jp/item2/item240.html
http://www.amazon.co.jp/ふつうのお寺の歩き方-広尾-晃/dp/4904678745