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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第35回 奈良時代の仏教はどんなものだったか?
奈良時代は、日本で最初に仏教が広まった時代といえるでしょう。
このころの仏教は、後世には「南都六宗」といわれるようになります。
歴史の教科書などでもおなじみの法相宗、倶舎宗、三論宗、成実宗、華厳宗、律宗の6つ。
ただし、後世の浄土宗、曹洞宗などの宗派とは異なり、
仏教の派閥というよりは経典ごとの「学派」に近い性格のものでした。
当時の仏教は、選ばれた人たち=僧侶が悟りを開くための方法を研究するものでした。
仏教はすべての人を救うのではなく、一握りの選ばれた人が厳しい戒律を守って解脱し、仏になるためのものでした。
寺院は、そうした僧侶たちが修業に励む場でした。
聖武天皇や豪族たちは、悟りを開いた僧侶たちが仏の力を借りて、
国家や自らの一族を災難から守ってくれることを期待して、寺院を建立し、僧侶を住まわせたのです。
こうした仏教の考え方(上座部仏教)は、のちの仏教(「大乗仏教」)から「小乗」といわれます。
「乗」は乗り物。少人数しか乗れない乗り物のように、限られた人しか悟りを開くことができない、
という非難めいたニュアンスがこめられています。
奈良仏教はエリートの仏だから、釈迦の教えにしたがった厳しいルールや修行がありました。
しかし、そうした仏教の教えは一度にまとまって伝えられたわけではなく、さまざまな部分が経典となって伝えられました。
このために仏教公伝から200年以上もたっているのに、
中国で定められた正しい戒律が行われているのかどうか、わからないありさまでした。
「中国での仏教の在り方と違う」
留学僧を中心にそんな意見がたくさん出ました。
聖武天皇など奈良時代の天皇、権力者はこうした声に危機感を抱き、大陸から次々と学僧を招きました。
大仏開眼のときに招かれたインド人の菩提遷那、しばらく後に唐から招かれた鑑真などは、
日本人に正しい仏教の教えや戒律を伝え、指導するためにやってきたのです。
奈良時代の民衆にとって、仏教は自分たちに向けた教えとは思えなかったはずです。
なかには行基のように仏の教えを広く説く僧もいましたが、
ほとんどの僧侶は寺院にこもって修業に明け暮れていました。
また、当時の僧侶は遺体に触れたり、葬式を執り行ったりすることは「穢れ」として固く禁じられていたので、
人々の死に際して僧侶に接するようなこともありませんでした。
このころには、すでに仏像が祀られているお堂はありました。
人々はそうした仏様に手を合わせることはあったでしょうが、そうした仏が自分たちを救ってくれるとはあまり思わなかったでしょう。
大衆レベルでいえば、まだ全国には「仏教のかけら」がばらまかれたに過ぎなかったのです。
奈良仏教の拠点の一つだった奈良市の大安寺
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
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