HOME > 広尾 晃の気まぐれ寺ばなし > 第33回 奈良仏教の弊害
広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第33回 奈良仏教の弊害
聖武天皇による仏教を中心とした国づくりは、中国に範を採ったものでした。
全国に国分寺、国分尼寺を建立するという政策は、聖武の時代より30年ほど前、
唐の朝廷を一時的に簒奪した武則天(則天武后)が中国全土に大雲経寺を建てたことに倣っています。
この当時も、中国は手本であり、仏教も中国から伝わる教えが良いとされていました。
留学僧や渡来僧が重んじられたのです。
玄昉はそんな留学僧の代表です。
空海の母方の家系である阿刀氏の出身で、義淵の弟子となり、遣唐使船で中国に渡り仏教を学びます。
大変優秀で当時の玄宗皇帝の覚えもめでたかったといわれます。
5000巻の一切経を抱えて帰国。中国の最先端の仏教を学んだとして、聖武天皇に重用されます。
しかし、不遜な性格で、宮廷に敵を多く作ります。
中でも藤原氏と対立し、ついには藤原広嗣の乱を引き起こします。
この争いでは勝利者の側に付いたものの、復権した藤原氏の攻勢にあって失脚します。
その後も仏教の興隆とともに、政治の世界に影響力を持つ僧侶が出現します。
有名な道鏡もそうです。道鏡は仏教布教に反対した物部氏の一族だった弓削氏の出身。
あまり力のない下級豪族でしたが、義淵の弟子となり、
兄弟子にあたる良弁の教えを受けて僧侶として頭角を現します。
聖武天皇の崩御後、一時帝位に就いていた孝謙上皇(のち称徳天皇)の信任を得て朝廷の実権を握ります。
一族の弓削氏は一躍朝廷で高い官位を得るようになります。
ついには皇位の簒奪まで考えたといわれますが、称徳天皇の崩御とともに失脚しました。
聖武天皇は、仏教によって平安な世の中をと考えられたのですが、
当の仏教の担い手が騒乱の当事者になってしまったのです。
玄昉や道鏡だけでなく、東大寺、興福寺などの僧侶の勢力も強くなり、政治にも度々干渉するようになります。
8世紀末、桓武天皇が奈良から他の地へ都を遷そうと考えられた背景には、
権力を持った奈良仏教の弊害もあったといわれています。
玄昉が左遷された福岡県観世音寺
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
メディアイランド刊『ふつうのお寺の歩き方』
全国書店やネット書店で絶賛発売中 ↓↓↓
http://www.mediaisland.co.jp/item2/item240.html
http://www.amazon.co.jp/ふつうのお寺の歩き方-広尾-晃/dp/4904678745