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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第31回 神宮寺にはフィクサーがいた

神社が次々と寺院に管理されていく、神宮寺という形式は、またたく間に広がりました。

実は、神宮寺は自然現象的に広がったわけではないようです。

一人のフィクサーが動いていたのです。



その人物の名は満願。

大和生れの修験僧、つまり山野を跋渉して修行を積む僧侶、山伏の先祖のような存在です。

養老4(720)年に僧侶智仁の子として生まれ

(つまり、当時すでに僧侶の戒律は守られていなかったのです)、

20歳で出家し、方広経1万巻を読んだことから万巻と名乗ったようですが、

のちに満願と改めたようです。

恐らくは国家が定めた僧侶(年分度者)ではなく、私的な僧侶(私度僧)だったのでしょう。



満願は、諸国を巡って仏教を広めましたが。

天平勝宝元(749)年、鹿島大神の悩みを聞いて鹿島神宮寺を創建、

さらに14年後には多度大社に赴き、ここでも神宮寺を造ります。

つまり、前回紹介した「仏門に入る神々」は、実は満願によって演出されたのです。



恐らく満願は、各地で修業を積んだ神通力のある僧という触れ込みで土地に入り、

現在の巫女のように神を人に憑依させて託宣を伝えたはずです。

そして神宮寺の建立までをリードしたものと思われます。

満願は天平宝字3(759)年には、相模国(神奈川県)で箱根山三所権現を創建したといわれます。

権現とは、仏が神に姿を変えて現れたもの。これも神仏習合の形です。



一説によれば、満願は弘仁9(818)年満98歳まで生きたといいます。

恐らくは、同じようなストーリーで、全国の神社に次々と神宮寺を設け、

神仏習合を推進していったようです。



奈良時代後半から、平安時代初期にかけて、神社は雪崩を打つように仏教と一体化していきました。

満願だけでなく、彼のやり方をまねた修験僧たちが暗躍していたのではないかと思われます。

満願の晩年は、すでに最澄や空海が活躍していた時代でした。

新しい仏教が中国からもたらされようとする時代は、

一方ですでに日本にあった仏教が変質しようとする時代でもあったのです。


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滋賀県草津市の神宮寺


プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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