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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第27回 神と仏はライバル関係だった

日本に仏教が伝来する前から、日本には神道という宗教が存在していました。

神道は教祖がいて教えを広めたのではなく、日本古来の人々の考え方や自然への畏敬の念が、

いつしか「神を崇拝する」という形でまとまったものです。



神道は、その土地に住む人が、土地を守る神「産土神」を信仰し、

神を中心にコミュニティを維持するというかたちのものでした。

集落の中心に神社が設けられ、人々は毎日ここで礼拝しました。

また、神社は人々が集う場所にもなりました。

日本がまだ多くの豪族によって割拠していた時代には、

神、神社は集落ごとにばらばらに存在していましたが、

大和朝廷によって征服が進むとともに、地域の神々も天皇の祖先とされる天照大神のもとに統合されていったのです。



大和朝廷は、神社を統治のために利用しました。

天照大神を祭る神宮(伊勢神宮)は、全国の神社の頂点に立つと定められました。

毎日拝んでいた神が天照大神に連なると定められたことで、

人々は神社を介して国家への忠誠を誓うことになりました。


また神社は国家財政を担う役割も果たしました。

神社には「初穂」という形で、地域でとれた米や物産の一部を収めることになっていました。

人々は神様に収穫の一部をお供えしていたのですが、実はそれが国家の財源=税となっていました。

律令制度が定められた8世紀初頭、租庸調という税金が定められましたが、

このうち「租」は、初穂の制度がそのまま引き継がれました。



神社は大和朝廷による国家統制の要であっただけでなく、徴税機関でもあったのです。

仏教公伝をめぐって物部氏、中臣氏(神祇をつかさどる氏族)などが仏教の普及に強く反対したのは、

信仰の問題だけでなく、そのことによって神社を介しての国家統制に支障が出ることを恐れたからでもありました。



奈良時代も中期になって、聖武天皇の「鎮護国家」の考えによる国分寺国分尼寺が全国に建立されると、

多くの人々が仏教に関心を持つようになりました。

特に地方の豪族は氏寺を建てたり、自邸に仏像を祭ったりするようになりました。

こうなると、自然に神社への信仰の念が薄れて行きました。



物部氏らの心配は現実のものとなったのです。

これは、国家統治の上からも、財政の上からも困ったことでした。

神社の衰退と仏教の興隆、この現象が「神仏習合」という日本独自の考え方に発展したのです。


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伊勢神宮 内宮


プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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