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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第19回 聖武天皇とはどんな方だったのか?
極端にいえば、奈良時代は「東大寺が建立された」という
一事で記憶されてもよいのかもしれません。
仏教のみならず、日本の文化を考えるうえで、東大寺の建立は重要です。
そしてこの国家的大事業を決意したのは、聖武天皇です。
聖武天皇は大宝元(701)年、つまり大宝律令が発布された年に生誕されています。
母は藤原鎌足の孫の藤原宮子。御名は首皇子(おびとみこ)。父は文武天皇。
天智、天武両天皇からは曾孫にあたります。
645年の大化の改新以来、兄弟である二人の天皇の係累での権力闘争が続きました。
天智が崩御して勃発した672年の壬申の乱によって、
天武天皇が勝利し権力に座に就きますが、686年に崩御。
皇位を継承すべき皇子の草壁皇子がその3年後に薨去。
皇統は女性天皇が引き継ぎます。
聖武天皇の父の文武天皇は、草壁皇子の子で、天智天武両天皇の孫に当たり、
皇族の正系として期待を集め15歳で即位しましたが、病弱のため24歳で崩御。
再び女系天皇の時代となりました。
そして政府の実権は、天武天皇の孫に当たる長屋王が握ります。
長屋王は聖武天皇の母方の藤原氏と激しく対立していました。
聖武天皇は、幼少から母系の藤原氏をはじめとする周囲の期待を一身に担っていました。
「首皇子」という名前にもそれが現れています。
7歳のときに父文武帝が崩御した聖武は、23歳で即位。
しかし実権は左大臣の長屋王が握っていました。
しかし在位5年目の神亀6(729)年に「長屋王の変」が起こり、王は自殺。
一族は滅びました。
代わって聖武天皇と縁が深い藤原氏が実権を握ります。
若い天皇の周辺は相も変わらない権力が闘争が続きます。
長屋王が滅びた後も疫病が流行し、
一時は朝廷の主要な官職にある貴族の過半数が死亡するなど凄惨な状況となります。
聖武天皇は、この危難の時代にあって、
何とか国家を立て直すために仏教の力にすがろうとしたのです。
聖武天皇の置かれた立場は、仏教公伝をめぐる権力闘争や外交問題で国家が揺れた時代に
政権を担った聖徳太子と似ているように思えます。
同様に、国家の中心に仏教を据えることで災厄を乗り越えようとしたのです。
聖武天皇が興した東大寺、転害門
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
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