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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第15回 まだ庶民は仏を知らなかった
長い政争、内乱を経て日本の朝廷は仏教をもとに国を治めるようになります。
聖徳太子は「十七条の憲法」の二条目で
二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能?従之。其不歸三寶、何以直枉。
篤く三宝を敬え。三法とは仏法僧なり。と、仏像、仏教の教え、それを伝える人(僧)を敬うことを国家の方針と定めています。
当時、僧侶には資格はありませんでしたが、
中国から渡来した僧侶、または中国で仏教を学んだ僧侶が指導的立場にありました。
まだ、日本国内には仏教を指導できる人物はいなかったのです。
その点、御雇外国人を数多く雇った明治維新によく似ているといえるでしょう。
昨日紹介したように、有力豪族は「氏寺」を造り、有名な僧侶を招へいしました。
気化人である秦氏は、京都の平野(北区)に広隆寺を造りました。
当時の京都は遷都のはるか以前であり、
荒涼たる地平には、少数の渡来人が住んでいたにすぎませんでしたが、
ここに法隆寺によく似た壮麗なお寺が出現したのです。
しかしながら、こうした「仏教ブーム」は、多くの庶民にとって別世界の出来事でした。
人々は地域を支配する豪族が古墳を造ることをやめて、
壮麗な寺院を建築し始めたことに、目を見張るような思いをしたでしょうが、
その建物が何のために建てられたのか、その中で何をしているのか、知る由もありませんでした。
また一部の渡来人、帰化人にとって仏教は父祖以来の信仰の対象でしたが、
これと国家が進める仏教とは関係がありませんでした。
聖徳太子は、人々が平和に幸福に暮らすための「法」として
仏教を広めようとしたのかもしれません。
けれども豪族など有力者にとっては毎日拝むことによって「一族に繁栄をもたらす神」でした。
仏教は非常に直接的な利益につながる「知識」であり「科学」のようなものでした。
仏教に対するこのような考え方は、平安時代初期まで長々と続きます。
そして、この期間、多くの庶民にとって仏教は無縁のものでした。
聖徳太子が興した法隆寺
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
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