HOME > 広尾 晃の気まぐれ寺ばなし > 第13回 古墳と寺院の関係

広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第13回 古墳と寺院の関係

日本の古代豪族は、自らの権力を示すために古墳を造りました。

3世紀前後から約400年の間、西日本を中心に多くの古墳が造られました。

これは、弥生時代の後半に入って、農村定住社会が生れ、

富の集積、権力の集積が進んだことが大きいとされます。

集落ごとに権力者が生まれたのです。

大和朝廷は、こうした豪族を征服し、その頂点に立ったのでした。



当然のことながら巨大な古墳は、大和朝廷の権力者である天皇のものでした。

最大の古墳は、よく知られているように西暦4世紀前後とされる仁徳天皇陵です。



このころに、朝廷の権力も最大になったと考えられます。

しかし、以後、古墳の大きさは徐々に小さくなります。

数も減少します。また形状も横穴式になるなど変化します。

そして、大化の改新直後の大化2(646)年に薄葬令が出され、

古墳は公式に禁止されます。

東北地方では以後も数世紀にわたって古墳が造られたようですが、

大和朝廷の中心部では、古墳時代は完全に終わるのです。



古墳の禁止令の背景には「公地公民」制の問題があるといわれます。

大化の改新によって、土地や人民は国家のもとに一元的に所有されることが確認されました。

一個の豪族が広大な土地を使って、多くの人民を使役して古墳を造ることは、

公地公民の原則に大きく反します。

新政権としては、看過できないことだったのでしょう。

しかし、それと同時にこの時代、すでに古墳を造るような豪族が

ほとんどいなかったことも大きいでしょう。

禁止令を出しても抵抗はなかったのです。



なぜ、古墳は造られなくなったのか?

いろいろな原因が考えられますが、近年、注目されているのが「氏寺」の存在です。

西暦587年、蘇我氏と物部氏の騒乱に決着が付き、仏教は正式に認められましたが、

その前から多くの豪族たちは自邸内に仏像を安置し、

建物を建てて毎日拝むようになっていました。

その走りは、蘇我氏が建てた飛鳥寺だとされます。



聖徳太子が建立した法隆寺も「上宮王家」の氏寺だということができます。

この法隆寺は、他の豪族にとって「氏寺」のお手本となったようで、

法隆寺式伽藍配置の寺院が各地に建てられるようになりました。

自らの権力を示すために「古墳」を造立してきた豪族たちは、

その財力を「氏寺」に注ぐようになったのです。

中には古墳と寺院を両方造った豪族もいたようですが。

「古墳はもう古い。これからは寺だ」というような会話が

豪族たちの間で交わされたのではないでしょうか。



ちなみに仏教に対して終生あこがれの念を抱いておられた欽明天皇が

寺院を建てた記録はありません。

欽明天皇陵は明日香村の梅山古墳あるいは橿原市の見瀬丸山古墳であるとされます、

いずれも古墳時代の最末期の古墳とされています。


第13回005-1中.jpg

仁徳天皇陵

プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

メディアイランド刊『ふつうのお寺の歩き方』

全国書店やネット書店で絶賛発売中 ↓↓↓ 

http://www.mediaisland.co.jp/item2/item240.html

http://www.amazon.co.jp/ふつうのお寺の歩き方-広尾-晃/dp/4904678745

ふつうのお寺書影小.jpg

活字メディア探訪

著者に聞く

Facebookページ

自費出版をお考えの方へ