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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第9回 内乱の果てに仏教は伝わった
さて、「きらぎらし」と仏に憧れを抱いた欽明天皇でしたが、
物部氏の圧力によって仏を難波の堀江に捨てざるを得なくなりました。
欽明天皇13(552)年のことでした。
しかし、帝は仏への思いを断ちがたく思っておられたようです。
翌14年の5月、河内国から
「芽淳の海(ちぬのうみ、今の大阪湾)の海中から仏教の楽の音が聞こえます」
と報告が入ります。
早速、海中に潜って探させたところ、光を放つ樟が見つかりました。
天皇はこの木を彫って仏像二躯を作らせ、吉野寺に安置させました。
すでにお寺を作ることが行われていたので、
実質的に仏教は広まっていたのでしょう。
しかし、当時の日本は仏教を正式に受け入れるどころの騒ぎではありませんでした。
朝鮮半島に200年近くも植民地として維持していた「任那」が、
仏教が伝来して10年後の562年、高句麗、新羅に攻められて滅亡したのです。
毎年のように外交団がやってきたり、出兵したりしていました。
欽明天皇は、日本史上でもまれなほどに外交問題に奔走された帝でしたが、
在位32年目の571年に崩御します。
仏を信仰することはかなわなかったようです。
欽明天皇は聖徳太子の祖父に当たられます。
物部氏によって仏を排除された蘇我氏ですが、
仏教の信仰は捨てなかったようです。
欽明の子の敏達天皇の13(584)年、蘇我稲目の子の馬子は、
百済からもたらされた弥勒菩薩など2体の仏をもらいうけ、寺を建てます。
そして渡来人の中で僧の経験があった恵便という人物を師とし、
自らの娘などを尼にして信仰をはじめます。
すると、また国中に疫病が起こったので、また物部守屋が敏達天皇に
「あれほど申し上げたのに、なぜ私の意見をお聞きにならないのですか?」
と抗議をします。
天皇はこれに反論ができず、守屋は蘇我馬子の寺を壊し、焼き払います。
このことは敏達天皇にとって、大きな心労になったようで
翌585年に病を得て崩御されます。
どうやら蘇我氏と物部氏は、この時期から深刻な対立関係になったようです。
仏教は蘇我氏と物部氏の勢力争いの「政争の具」になったのでしょう。
蘇我氏は渡来系の氏族とされます。
仏教へのアレルギーは比較的少なかったはずです。
大伴氏とともに古くから軍事を司っていた物部氏にしてみれば、
目障りな新興勢力だったのでしょう。
敏達天皇のあとは、異母弟の用明天皇が即位します。
この帝は蘇我稲目の孫、つまり馬子の甥に当たります。
しかし2年もしないうちに病気に罹ります。
どうやらこの病も、多くの民や敏達天皇の命を奪ったものと同じだったようです
(痘瘡だったのではないかといわれています)。
用明天皇は「仏に祈りたい」と願われますが、物部守屋は
「なぜ異国の神に祈るのですか。そんなことは聞いたことがない」
とつっぱねます。しかし蘇我馬子は、天皇のために僧侶を連れてきます。
物部守屋は、クーデターを起こそうとしますが、
足並みが乱れたために断念します。
587年旧歴5月、用明天皇が崩御。一触即発となっていた蘇我、物部両氏は、
その直後から多数派工作をしたり、相手方の要人を殺害したりしますが、
7月についに両者は全面衝突し、朝廷の多数派の支持を得ていた蘇我氏が
河内国渋川(大阪府東大阪市)の物部守屋の邸を焼き払い、物部氏を攻め滅ぼします。
仏像が百済からやってきて実に35年。
仏教は、多くの人々の血を流した果てに
国を守る宗教として公式に受け入れられることとなったのです。
蘇我氏の氏寺、飛鳥寺(奈良県)
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
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