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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし
第5回 お寺のはじまり
しばらくお休みしていました。今回からはしばらく私の「お寺論」にお付き合いください。
日本に仏教がやってきたのは西暦538年または552年といわれています。
教科書にはそう書かれていますが、恐らく、大陸から渡来した人たちの多くはそれ以前から、仏像を携えてきたに違いありません。渡来人は、自らが信仰する仏様(念持仏)をおまつりするために、お堂を建てたのだと思います。そして、そのお堂を「寺」と読んだのではないでしょうか。
「寺」という字にはもともと、仏教施設という意味はなく、大きな建物、官立の建物を意味したようです。秦漢の昔から中国の朝廷には「九寺」という制度がありました。太常寺、光禄寺、衛尉寺、宗正寺、太僕寺、大理寺、鴻臚寺、司農寺、太府寺の9つで、今の日本の制度でいえば「省」のような感じだったようです。
外国の賓客をもてなすのは「鴻臚寺」。「鴻臚」とは、「おおとりの思い」のような意味。漢詩漢文の国だけに、役所のネーミングもロマンチックです。
日本の朝廷は、官僚機構や制度など中国をお手本にしました。日本でも外国の賓客をもてなす施設として九州に立派な施設が建てられました。これを「鴻臚館」と呼びました。中国の役所の名前に倣ったのでしょうが、なぜ「鴻臚寺」と呼ばず「鴻臚館」と呼んだのか?
私見ではありますが、日本ではすでに仏教施設を「寺」と呼んでいたからではないでしょうか?
中国で、仏教の施設を「寺」と呼んだはじまりは1世紀(後漢)に洛陽に建てられた「白馬寺」だと言われています。天竺(インド)から招いた2人の高僧を白馬寺に泊めた。この時点では「鴻臚寺」と同じく「白馬寺」も、外国の賓客をもてなした施設という意味だったはずですが、この2人の僧が「白馬寺」を拠点として布教活動を始めたために、いつしか「白馬寺」が仏教の施設の名前だと認識されるようになったようです。「白馬寺」は、仏教の普及とともに中国の主要都市に広がったようです。5、6世紀頃の中国では「寺」といえば官公庁と、仏教施設二つの意味を持っていたようです。
そうした仏教にふれた中国人が念持仏をもって日本に渡り、ささやかなお堂を建てて「寺」と呼んだ。日本の人々も「寺」といえば仏様がいる施設だという認識ができていた。
だから、中国に倣って外国人の賓館を建てるときに「鴻臚寺」と名付けては、仏教寺院とまぎらわしいために「鴻臚館」と呼んだのではないかと思います。
日本のお寺の歴史は、正史よりもかなり古いのではないか、私は勝手にそう思っています。
プロフィール
広尾 晃(ひろお・こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。
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