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本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪

第6回 西鶴が暮らした場所を推理する

ここまで、俳諧師と大阪初期の出版文化について前編と後編に分けて書いてきて、きれいに話を締めようと思ったら、さらなる発見が待ち受けていた。
そこで番外編として、谷町と西鶴の関係に触れてから、ここまでの話を総括したい。

 

やりや町とすずや町


前回触れた通り、井原西鶴が谷町四丁目駅近くの鑓屋町(やりやまち)で暮らしていたとする説は、鑓屋町という情報をもとにかつて刀鍛冶の商いが集まっていた住民構成、さらにはその住民たちが伏見町人の出身というこの町のルーツまで、西鶴の出自に関する数々の可能性へと推理を広げながら、西鶴居住説(もしくは西鶴出身地説)の定番となっている。
とはいえ、この説自体が可能性の域を出ておらず、住民がすっかり入れ替わってしまった今となっては、鑓屋町を歩いてみたところで、その説を裏付けるものは何一つ見当たらない。

 

一方、西鶴の謎多き生涯の中で、彼の晩年の居住地だけは、かなりの信憑性を持って現在に伝わっている。すでにタイトルで察しの通り、'さらなる発見'とは西鶴の居住説に関することである。

 

西鶴は「大坂谷町筋四丁目すゞ屋町ひがしは(錫屋町東側)」にあった西鶴庵で晩年を過ごしている。地下鉄谷町四丁目駅の2番出口を出た辺り(現在の町名で谷町三丁目・四丁目)をかつて錫屋町(すずやまち)といった。

 

谷町筋に面した旧錫屋町に、「此界隈井原西鶴終焉之地」と刻まれた碑が立っている。

 写真1-1.jpg

 

この場所に立って、おやと思ったことが2つある。

まず一つ目。碑の前に立つと、谷町筋を挟んで向かい側に、刀鍛冶の町・鑓屋町がまっすぐに延びているのだ。
西鶴が晩年を過ごした<谷町筋東の錫屋町>と、信憑性は定かでないものの根強く居住説が残る<谷町筋西の鑓屋町>。錫屋と鑓屋というまるで姉妹のようにややこしいネーミングを持つこの2つの町が、この広い大阪城下で、谷町筋を挟んで目と鼻の先にあたるというのは、「世間は狭い!」という一言で片づけられる代物ではない。

 

写真2-1.jpg

 奥に延びる道が鑓屋町、手前の撮影地(碑の前)が旧錫屋町。

 

細かな真偽はともあれ、西鶴が終焉の地を錫屋町に定めていることからも、それ以前の居住地として谷町以上の有力な居住説がないことからも、彼がこの谷町四丁目界隈に縁が深かった(その縁は死後も続いている)ことだけは、否定しようのない事実である。

 

さて、これだけなら地図で場所を確かめさえすれば、誰でも簡単に突き止められる。
数いる研究者が長年研究を重ねても真実にたどり着けない「西鶴はどこで暮らしていたのか」という問題を、ちょっと現場を歩いてみただけのいちライターが、なぜあえて記事にしようとしたのか。
答えは町に触れたことで偶然気づくことができた、2つ目の気づき(私にとっての大きな発見)があったから。発見地は同じ地点、時間は西鶴にまつわる取材を開始したばかりの7月の真夏日にさかのぼる。

 

西鶴は生玉さんの氏子だった


西鶴ゆかりの地である生國魂(生玉)神社といえば、大阪三大夏祭りの一つ「いくたま夏祭」が有名である。祭りの日には、西鶴主催の万句興行のような活気が、境内で垣間見られるかもしれない。
そう思い立って神社へ向かう道中、まずは谷町筋の碑の辺りに立って(その時は

プロフィール

鈴木 遥(すずき・はるか)

ノンフィクション作家。1983年生まれ。神奈川県平塚市出身、大阪市在住。
学生時代、全都道府県120地域以上の古い町並みをまわり、京都、奈良を中心にさまざまな町並み保存活動や建築物の記録活動に携わる。出版社勤務を経てフリーランスに。
電信柱の突き出た不思議な家と97歳ミドリさんの秘密を追ったデビュー作
『ミドリさんとカラクリ屋敷』が第8回開高鍵ノンフィクション賞の次点に。
今年5月に文庫版(
http://www.amazon.co.jp/dp/4087453200)が集英社文庫より刊行された。
共著『次の本へ』。ブログ
http://karakuri-h.seesaa.net/

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