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本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪
第1回 なぜ谷町には紙屋が多いのか
大阪古書会館から先、空堀商店街へ向かってすり鉢状にぐわんと曲がった'すり鉢の底'まで自転車で下っていくと、直木三十五記念館(直木賞で知られるあの直木氏の記念館)にさしかかる。
ここから先、印刷屋に印章店、ギャラリーに紙の雑貨店......。わずか百数十メートルほどの坂道は、商店街に近づくほどみるみると、「紙」の密度が濃くなっていく。
坂道の途中の印刷長屋で、年季の入った鉄の印刷機を動かしながら、年配の男性が私の問いかけに答えてくれた。
「ここは印刷所ようさん(たくさん)ありましてね......。今は町内(谷町六丁目)に3軒。10年ほど前までは7軒ありましてんで」
2軒長屋に入居する「誠美印刷」(左)と、話を伺った「エイト紙藝」(右)。
ひと昔前までは、戦争で焼け残った古い長屋から、印刷機の音がガチャガチャと鳴り響いてくるいわゆる「印刷横丁」が、この界隈(谷町の南端、谷町六丁目から上本町にかけて)にはたくさんあった。
出版物がメインの東京に対して、大阪の印刷はポスターやカタログ、伝票や事務用品といった商業印刷をメインにしている。戦前からすでにあった印刷屋に、終戦直後、新規参入の印刷屋が次々と加わり、彼らはこの土地で高まる印刷需要に応えていった。
では、これらの印刷屋に紙を卸している紙の問屋は、どこに集まっているのだろう。
ひとくちに紙屋といっても、この地域では紙の卸しから包装紙屋、商品の紙箱(パッキンケース)をつくる紙の加工業まで、紙にまつわる職業がトータルに「紙屋」と呼ばれている。それらの紙屋や印刷屋に紙を卸しているのが紙商、いわゆる紙の卸し問屋だ。
「紙の卸しは'まっちゃまち'(松屋町)に行かへんと、ここにはないで」
今回の目的は、活字メディアの根本、紙屋がなぜ谷町に多いのか、その理由を探ることにある。
印刷屋で教えられるがまま、今度は空堀商店街を抜けた先、谷町の西端を南北に延びる松屋町筋(通称'まっちゃまちすじ')へと繰り出すことになった。
紙の卸し店に勤めていた店主が、様々な紙を広く紹介したいと開業した。
松屋町筋へ
その多くがビルになっているため見落とされがちだが、谷町には紙屋が多い。それも、この地域の主要産業である繊維業に次いで、谷町で二番目に多いのが紙屋だと言われている。
人形と玩具と駄菓子の問屋がずらりと連なった松屋町筋の問屋街にさしかかると、数々の「人形」の看板の中に、赤い「紙」の文字が掲げてあるのが目に留まった。
昭和2年創業の「大阪紙業」。戦後まもなく、市内港区から松屋町に移転してきた、紙の卸し会社である。
「この辺りは乾燥しているから、紙の保管に適している。ねじ屋と紙屋が多いんですよ」
店の奥の事務所で声をかけると、谷町に紙屋が多い理由をずばり、こう説明してくれた(その後別の人に尋ねた時も、「谷町に紙屋が多いのは、台地で印刷物が乾きやすいから」とその理由を挙げていた)。
上町台地に位置する谷町は、高地で水はけが良いことから、湿気が少ない。その、上町台地から西の麓に広がる船場の中間、台地の傾斜地に松屋町はある。
では、なぜねじ屋までもが多いのか。ねじは乾燥していると、加工がしやすくなるのだそうだ。
なるほど......。と思いながら次の訪問先の多田寅洋紙店(明治43年に松屋町筋で創業した、老舗の紙の卸し会社である)でここまでの成果をぶつけると、今度はまったく違った反応が返ってきた。
「乾燥? そんなこと考えたこともない(笑)。昔やったら、川堀が多くて交通が便利なところっていうのがあったんちゃうかな」
そう、江戸時代から戦前にかけての大阪の紙屋は、松屋町筋から東横堀川を挟んだ西側の、北船場に密集していた。その理由は言うまでもなく、北と東を川堀に囲まれて、川船を使った紙の運搬に適していたからだ。
今も戦前からの由緒ある紙屋は北船場に多い。加えて、北船場の紙の卸し業にはメーカーと直接取引する一次取次の企業もあり、代理店から仕入れた紙は加工業などの紙屋に卸すという地域性がある。
一方、松屋町の紙の卸し業は比較的規模が小さく、紙を代理店から仕入れたあと、紙屋ではなく印刷屋に卸すのが特徴だ。加えて、松屋町筋から東は、印刷長屋がたくさん立ち並んでいた「印刷横丁」(横丁というのは多田寅洋紙店の多田さんの表現を借りている)のエリアである。
現在は、その紙屋や印刷屋の多くが、土地の安い東大阪に移転してしまったが。
かつて北船場に集まっていた紙の卸し店は戦後、その周辺----とりわけ北船場の南部からその東の松屋町----へと広がっていった。ここで重要なのは、戦前からの北船場と、戦後に紙屋の増えた松屋町----という構図である。
戦争で運よく空襲を免れた北船場に対し、松屋町筋を含む谷町の大部分、そして南船場は焼土と化した。つまり北船場に接し、そこからバラックを立てて復興していったこれら大阪中心部に、戦後、新たな紙屋が続々と集まってきたということになる。
交通に便利な大阪中心部、戦後のバラック街に新参者、紙の保管に適した台地......。そこにもう1つパーツをはめるとしたら、松屋町は問屋街ということになる。
松屋町に紙の卸し店が集まってきたことと、「松屋町筋の問屋街」には何か関連性があるのだろうか。
ビルの壁面を勇ましくのぼる黄金の鯉と金太郎。
問屋街と紙屋の関係
「文房具屋に包装紙屋に本の卸しと、とにかく紙関連の店が多かったです」
この町で生まれ育った横井敦子さんは、紙にまつわるあれこれを語ってくれた。
彼女の祖父母は終戦後まもなく、何もないところから松屋町に来て、ここで紙の卸し会社「エビス商会」をはじめた。
そのうち、祖父母は商品の紙を折って封筒にして売るようになり、エビス商会は現在、文房具屋になっている。紙屋から文房具屋へ。そう、松屋町には紙に関連して、古くからの文房具屋、さらには文房具屋に紙を卸すのが専門の卸し会社も集まっている。
それだけではない。昭和50年代、松屋町筋には本の卸し業者が3〜4軒あり、玩具や駄菓子と同じように、店先の路面で本を卸し値で売っていた。
「だから学生の頃、本を定価で買ったことがなかったです。手塚治虫も'まっちゃまち'に本を買いに来てたって聞いたことがあります」
戦後の松屋町筋は人形や玩具だけでなく、紙の街であり、さらには本の街でもあったのだ。
玩具問屋からは商品を入れた紙類や段ボール箱が大量にはき出されてくる。
それにしても、手塚治虫が本を買いに来ていたとは、いったいどういうことなのだろう。
松屋町には戦中から昭和二十年代半ばにかけて、仙花紙(粗末な紙)の問屋が数多く集まっていた。その周辺には、手塚治虫の初期の漫画を発行していた育英出版や東光堂など、新旧いくつもの赤本(仙花紙を使った漫画本)の出版社が存在し、この町から赤本漫画のブームをつくりあげていった。
その赤本の取次をしていたのが、松屋町筋に軒を連ねる数々の玩具店だった。
当然そこには、インクや文具類、印刷などの業種も関連してくる。仙花紙が姿を消すと、今度は玩具などの商品を包む包装紙、商品を入れる紙箱の需要が高まった。
風が吹けば桶屋が儲かる。「紙」からはじまる連想ゲームをしていくように、紙屋のある場所には紙関連の様々な業種が集まり、松屋町からその東の谷町全域にまで広がって、
ここには豊かな紙の文化圏が築き上げられていった。
紙屋が集まるところに、活字文化は花開く。
この連載では「大阪の活字メディア(いわゆる出版文化)」をテーマに毎回、その文化と実態を浮き彫りにしていきます。お楽しみに。
大阪市役所編『新修大阪市史 第8巻』
大阪印刷百年史刊行会編『大阪印刷百年史』
週刊大阪日日新聞「松屋町は赤本の街」
http://www.pressnet.co.jp/osaka/kiji/110903_03.shtml
プロフィール
ノンフィクション作家。1983年生まれ。神奈川県平塚市出身、大阪市在住。
学生時代、全都道府県120地域以上の古い町並みをまわり、京都、奈良を中心にさまざまな町並み保存活動や建築物の記録活動に携わる。出版社勤務を経てフリーランスに。
電信柱の突き出た不思議な家と97歳ミドリさんの秘密を追ったデビュー作
『ミドリさんとカラクリ屋敷』が第8回開高鍵ノンフィクション賞の次点に。
今年5月に文庫版(http://www.amazon.co.jp/dp/4087453200)が集英社文庫より刊行された。
共著『次の本へ』。ブログhttp://karakuri-h.seesaa.net/