著者に聞く!
『頭のいい子には中学受験をさせるな 「灘」を超える東大合格メソッド』著者 稲荷誠先生にききました
稲荷塾ってどんな塾?
稲荷塾ってどんな塾?
「稲荷塾の特徴を一言で表せば、こだわりを持った職人的塾であると言えます。では一体何にこだわっているのかと言えば、授業の質とそれを活かすシステムです」
と、2014年度の稲荷塾の生徒募集のチラシに書きました。
しかしこれだけでは、とても稲荷塾のことを説明しきれません。
振り返ってみれば、1993年に3人の浪人生のめんどうを見たことがきっかけで、稲荷塾はスタートしました。それから今日に至るまで、私の塾への思いは徐々に変化してきました。それは大きく分けると2つの部分に分けられるような気がします。
つまり京大に入ることに意味があると考え、そのための授業やテキストを初めとするノウハウを作ろうとしていた段階と、さらにそれに付加価値を求めカリキュラムを整備して行った段階です。
そこで、私の歩んできた道を振り返ることで、稲荷塾とはどんな塾なのか、皆さんに知っていただければと思います。
「夢は京大」から一転、将棋の世界へ
思えば私の京大に対する憧れに近い感情は子供の頃に植えつけられました。私の両親も小学校の先生をしていましたが、おじやおばたちの中にも学校の先生が多く、その中で特に優秀だったと聞かされていた母の弟は、当時一期校だった京大に落ち、二期校の教育大学に行きました。そういうこともあってだと思いますが、そのおじから何度となく「お前は京大に行け」というようなことを言われました。両親からのほのめかしもあったと思います。気が付けば京大に入ることが私の夢になっていました。
そんな子供時代を経て、中1のときにある事件が起こりました。
父親の誕生日に禁煙パイプをプレゼントしたのに、父がそれを使わなかったのです。中1といっても、精神的には非常に幼かった私にとってはショッキングな出来事でした。
それ以来、次第に親に反発するようになり、母親の口癖であった「社会のためになる生き方」さえも徹底的に否定するようになりました。
それで結局「人は自分が楽しいと思える生き方をすればそれでいいんだ」と主張して、将棋にのめり込むことになったのです。
これは両親が受け入れることができる範囲を大きく超えていたようです。特に私が奨励会(将棋のプロ棋士を養成する機関)に入ってからは、勉強もしないでふらふらしている私と両親の間で随分と激しいぶつかり合いがありました。
そんな私を再び方向転換させたのは何だったのでしょうか。
プロの世界の厳しさにもまれながら、そこで勝ち抜いていくだけの才能が自分にはないと悟ったこともひとつの理由でした。人に話すことができないような体験も数多くしました。それでとりあえず将棋をやめ、大学を目指すことになったのです。
それが高校を卒業する直前のことでしたが、それを聞いた担任からは「お前が行けるような大学なんかあるかい!」と一蹴されるほどに私の学力は最底辺層に位置していました。実際1年間の受験勉強で国公立の大学に合格するのは無理だと判断した私は、私立理系に絞って勉強し関西学院大学(関学)の理学部に進学することになったのです。
その後23才のときに母が癌で亡くなりました。亡くなった後に母の日記を発見しました。そこには私のことを心配し続けた母の心情が綴られていました。私が幸せな家庭を築くことを願い、日記の最後の文面は私の結婚相手が「身も心も清らかな娘でありますように」と願うものでした。
そうか! 母はそんなことを願っていたのか!? 私は涙を止めることができませんでした。これが転機になりました。
ふたたび、夢の京大へ
関学を卒業し塾に勤めるようになると、生徒を京大に合格させること、これが自分の使命であるかのように感じ、そのためのノウハウを探しました。あたかも自分の夢を彼らに投影したかのように。4、5年後にはノウハウも蓄積され、京大合格がそれほど難しいことではないと思うようになりました。
それで1994年に予備校講師になったことを契機として、翌1995年、自ら京大理学部を受験してみることにしたのです。
当時京大理学部はセンター試験を足切りのみに用い、2次試験の点数だけで合否を判定していましたが、5割程度の合格最低点に対して7割2分の得点をし、圧勝でした。
こうして予備校講師と学生の二重生活が始まりました。
幼いころから夢見ていた京大。その授業は刺激的でした。関学で3年生のときに習った内容が京大では1年生のときに出てきましたし、難解な証明を「当然ですね」と言いながら30秒程度で済ませてしまうようなことも驚きでした。指定された線形代数の本を買わずに、関学で使っていた本で勉強し、頻繁に質問に行く私に対して「君はよく勉強しているね」と言いながら、献本で余っていた永田先生の本をこっそり手渡してくれた教官のこともいい思い出です。 京大には「頑張る学生に対してはいくらでも応援する」という雰囲気があり、十分に楽しむことができました。
京大への思い入れはますます大きくなって行きましたが、予備校講師に加えてZ会京大マスターコースの講師、それに次第に成長する稲荷塾の仕事が増えたこと、そして子育てが重なり、遂に大学院進学をあきらめることにしました。
「稲荷塾方式」は親の思いを形にしたもの
稲荷塾はといえば、当初受験学年の生徒のみを集めていたところから高校生以上、中3生以上、中学生以上、小3生以上と、段階的に対象範囲を拡大し、それに伴いカリキュラムを考えるようになっていました。
中2から高校数学に入る「灘型」を初めて試してみたのは2003年のことですが、その時娘は小学4年生で、その後の教育方針については真剣に悩みました。
娘は当時テニスでは京都でダントツの1位であり、全国でもトップレベルにいたので、中学受験をするのはハナから選択肢外でした。小さい頃から習っていたピアノも続ければいいと思っていました。子供には豊かに育ってほしいし、何より幸せになってほしい、その上で勉強もできた方が良い、というのが親としての思いでした。
そして、この思いを形にしたものが稲荷塾方式だったのです。
今、私もそれなりの年になり、娘も大学生(現在、京大総合人間学部に在学中)になりました。こうしてみると、母が私に願ったことがごく自然なことであったことがよく分かるようになりました。
幸せな家庭を築くこと、これが第1で、その上でいい仕事をすることや大学受験のことも考えるべきだと思うのです。ですから塾をするにしても、この軸を失ってはならず、ただ「受かればよい」というやり方は論外です。
今、稲荷塾は「京大に入ることに意味があると考え、そのための授業やテキストを初めとするノウハウを作ろうとしていた段階」を経て、「親が子供に願うこと」を視点として持ち続ける塾へと成長して行こうとしています。
それを具体化したものが稲荷塾方式のカリキュラムや、作文教室、これから開講する英語クラスなのです。今回『頭のいい子には中学受験をさせるな』にはこのあたりのことを詳しく書きましたので是非お読みください。
英語クラスについては、私が見つけた最高の講師にフィリピンから来てもらうための手はずも整い、いよいよ2014年3月、開講します。
ミッションステー トメントとして掲げた
「世界的で歴史的な貢献をする人材を育成しよう」
を現実のものとするために、ますます精力的に取り組んでいきたいと思います。
プロフィール
1959年、京都府に生まれる。
関西学院大学理学部で量子力学を学ぶ。
京都大学理学部で数学を学ぶ。
塾講師、予備校講師を経て、現在稲荷塾代表。